1950年代の鋳造指導書が発見されたのでここに公開します.
本指導書は,横須賀海軍工廠で鋳物工場長を務めた谷山榮介が鋳造工場を指導した時に記したものです.

文書発見日2016.9

指導書はこのリンク先あるいは上のボタンからたどることができます.B5の便箋に手書きされていたので,そのままスキャナで画像にしました.文書は,タイトルのみディジタル化してあります.内容順に並べたものと,日付順に並べたものがあります.

また,「夏の湯は何故沸かないか」については電子文書化しました.

以下に,この文書の背景について所有者の解説を載せます.

尚,本指導書は昭和初期の情報であり,現状とは異なっていることがあります.本文書により提供された情報については,法的責任を負わず,また,情報の完全性、正確性など情報の品質に関わる,いかなる保証もいたしません.したがって,本文書の情報を利用して行った加工の結果生じた損害についても,文書記述者と所有者,公開元である産業技術総合研究所は一切の法的責任を負いません.

文中の敬称は省略させていただきます.

指導書の背景

元(株)コバチュウ小林俊朗
1995年,日産座間工場の閉鎖は全国ニュースとなったが,かたわらにあったコバチュウ鋳物工場もその後10年で静かに幕を閉じた.
生産設備の一部は他工場に移転し,第二の人生を送ることになったが,最新の自動造形機を始め,砂処理,溶解炉等多くの機械は廃却となった.
取引先に図面を返却すると,手元に谷山榮介の工場指導書が残った.捨てるは一瞬,貴重な文書と思い,保管することとした.
谷山榮介は日本鋳物協会(日本鋳造工学会の前身)発足時[1932(昭和7年)]の評議員だった.
協会創立当時の役員名簿を見ると,石川登喜治はじめ日本産業界や金属技術者の著名な人物が名を連ねている.
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指導書の整理を進めると,当時最新技術のダクタイルの記載がされていることに気がついた.
本指導書は金属の基本から始まり鋳鉄,銅合金,軽合金鋳物,鋳物砂,有機化学まで巾広く, 従来の専門書にない具体的な配合,図の記述などがあり,当時国家を上げて鋳造技術向上に相当な力を注いでいることが判明した.
現在でも適正配合を確立するのに相当時間がかかるものと考え,現場で苦労している多くの皆様の役に立てれば幸いと思った.
産業技術総合研究所の岡根利光が「現在の技術データの原典は1950年頃」と書いた文*)に目が止まり,相談したことで,今回の公開に至る.
*)出典:岡根利光;鋳造工学編集後記,Vol.88,No.2(2016),pp.138.
先般あるデータをまとめるために,引用されている図面の出典を辿っていき,原典の確認をしました. もしかしたらさらに古い出典があったのかもしれませんが,方案の解説図など,1950年代に出版された本からの引用が孫引きされているものが比較的多くありました.歴史を語るには甚だ勉強不足なのですが,戦争が終わり,それまで蓄積された技術が整理公開された時期なのでしょうか.次々と新技術・改良技術が現れる昨今ですが,このような本の散逸を防ぐなど,オリジナルの精神を辿って確認できるようにしておくことも大事だと思います.(後略)

指導書は1948(昭和23年)から5年間,3社に指導を行ったもので,谷山先生が手書きし,3部のカーボンコピーを作った.講義をした場所は,中目黒の小林工場である. 原稿本体はすでになく,今回,カーボンコピー1部が発見された.70年を経過しているため,色の薄いもの,変色しているものなど,読みにくい文書も多い.
海軍の技術書はかなり廃棄されており,当時の技術を知る上で貴重な情報である.

メンバー

指導を受けた工場は,後藤合金,森島工場,小林工場(のち小林鋳造,コバチュウ)の3社である. 後藤合金と森島工場は共に大田区蒲田に工場があり,海軍の指定工場という関係である.また,森島工場と小林工場は親戚関係である.
当時,森島工場在籍で谷山講義を受けたのは小林弥之助(小林4兄弟の長男,のちに小林鋳造社長)である.後年,日本綜合鋳物センター(現,素形材センター)で発行 した「鋳物の品質管理」で銅合金鋳鋳物の主査をした.弥之助は筆者の伯父で,今回発見したのは彼の保管していた指導書である.
また小林工場所属で,講義を受けたのは小林節次(小林4兄弟の次男)である.日本鋳造工学会銅合金部会の委員として活躍した.
後藤合金所属で,講義を受けたのは後藤正夫(創業社長 後藤潤五の長男)である.

コンテンツ

指導書は,木炭被覆による溶湯の酸化防止を始め,800ページほどあり, 古い表現の文字,また一部専門用語を英語で使用しているが, 専門家の皆様は判読可能と思う.
以下にその一部を紹介する.
1. 押湯の付け方
2. 脱酸と熔剤(Deoxidizer and Flex)
3. マンガン青銅製高速推進機の侵蝕について
4. 夏の湯は何故沸かないか

エピソード

筆者の知る谷山先生は自宅が逗子であること.
指導の合間に,当時2-3歳の長兄を抱いて,満員の横須賀線にゆられて走水海岸*に海水浴へ行ったことがあると聞いている.

*走水海岸(はしりみず);横須賀海軍工廠のほど近く

小林工場の沿革

・1871(明治4年)に芝赤羽(現在の東京タワー近隣)*1)に工作機械の国産化を目的に工部省が赤羽工作分局*2)(のち海軍造兵廠)を開設した.
芝赤羽在住で,人力車夫であった椎橋善太郎(筆者の祖母の兄)が,そこで機械部品用の銅合金鋳物製造法を習得. 独立して港区芝白金三光町に,鋳造工場を創業した.

*1)赤羽町は1967(昭和42年),住居表示変更により三田一丁目になった.
*2)赤羽工作分局は,1883(明治19年) 海軍省へ移管. 参考文献:中江秀雄著;大砲からみた幕末・明治,法政大学出版局,(2016),pp.136-138.
・その後,親戚筋で鋳造工場の開設が始まり,港区を中心に7軒となった.
・1945(昭和20年)に,小林4兄弟(弥之助,節次)がそれぞれの工場を統合し小林工場(小林鋳造)として,北里研究所の隣(芝白金三光町)で創業した.
・1948(昭和23〜43年)発展にともない工場が狭くなり,裕天寺裏の中目黒に移転.昭和23年,谷山先生の講義は中目黒の工場で始まった.
・1968(昭和43〜平成15年) さらに神奈川県座間に移転した.

  
       戦後の小林鋳造 工場風景

私,関口徹が知る(株)森島工場

(株)富士合金 関口徹

古い資料が無く,父より幼少の頃から聞かされていた事柄をまとめてみた.
(株)森島工場の沿革

・父,関口(旧姓森島)辰五郎が大正初期において,港区芝白金三光町に森島工場(個人)を創業.

・その後,銀行員であった兄の森島友三郎を社長に招き入れ,(株)森島工場を設立し,大田区羽田萩中町に工場を移した.
 その頃から海軍工廠から銅合金及び軽合金の鋳造品を受注するようになり,海軍の技術監督下の皇国第42工場という指定工場になった.
 海軍配下時代は,同じく大田区蒲田に工場がある後藤合金と共に軍の仕事をこなしていた. また監督官という言葉は聞いたが,谷山先生のお名前は出ていなかった.

・その後,(株)森島工場は茨城県の土浦市に軽合金工場を新設.
 最大2000人の従業員により中島飛行機戦闘機用のエンジン部品(キャブレターシリンダー等)を生産した,

・終戦と同時に羽田工場は米進駐軍に接収され,生産拠点を土浦工場に移した.

・戦後,谷山先生に社の技術担当者が師事し,その中の一人が小林弥之助である.
 今回,指導書を発見したのはその甥の小林俊朗で,氏の努力によりこの文書が世に出ることとなったと思っている.

 指導書公開にあたり,産業技術研究所の岡根利光,後藤合金社長鈴木元光,及び会社の方々,また小林俊朗,皆々様のご尽力に心より感謝申し上げたい.

(株)後藤合金創立者,後藤潤五が自伝に記した谷口榮介

「一平凡人の生涯」 (株)後藤合金創業社長 後藤潤三著 より

後藤潤五[1888(明治22年)生]は,(株)後藤合金の創立者である.
自伝を出版しており,その中に谷山榮介が登場する.
1920(大正9)年代,横須賀海軍工廠での実習の時に谷山榮介工場長より指導をされた.
その縁で戦後,技術顧問と指導を依頼した.その際の指導書が今回の発見文書である.
この経緯を,論文情報とともに年表にまとめた.

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